ママ: エフちゃんが生まれるより
ずーっとずーっと前の話だからね、
ふる~い話になるよ。(笑)
それはママが25歳のとき。
ママはヒッピーのように生きたいと思って、
ひとりでスペインへ行ったんだって。
なぜ、「~のように」なのかというと、
ママ自身、ヒッピーの何たるかを
よく理解していなかったから。
そもそもヒッピーの発祥はママの世代よりも
一回り前の世代だから、
ママにはよくわからなかった。
だから、
「社会の枠から外れ、自由にふらふらと生きる」
という誤った認識で捉えていたんだって。(笑)
インターネットもない時代、
ましてやママの住む田舎には大型書店もない、
極めて情報の乏しい中で
スペインを選んだ理由は・・・
ママ:22歳ぐらいのとき、バイト先の同僚が
スペインへ行ったときの話を聞かせてくれたの。
彼は30歳ぐらいだったと思うけど、
大学時代にトンネル工事のバイトに精を出し、
溜めたお金で卒業と同時に世界一周の旅に出た。
まず、イギリスで英語を勉強して、
その後は各国を旅してまわって、
スペインでは
洞窟でシプシーと暮らしたんだって。
洞窟から見上げる満天の星、
朝は市場へ行くと、
新鮮なオレンジなどの果物が並び・・・って。
ママ: エフちゃんには想像もつかないかもしれないけど、
私が子供の頃は、「オレンジ」って、
今ほどポピュラーじゃなかったの。
洋ナシとかも。
だから、
「新鮮なオレンジが市場にたくさん並んでいる光景」
っていうのは、まさに「外国」を思わせるのよね・・・。
ジプシー、洞窟、満天の星、市場の果物・・・・・・
まさに、「自由」っていう感じ。
私: それで行こうと思ったの?
ママ: ううん、全然。
外国へ行きたいとも思ってなかったし。
私の住んでる田舎では外国へ行くなんて
まだ珍しかったし・・・。
スペインへ行くことを考え始めたのは、
それから2年後のことなのだという。
ママはそのころ、人生に迷っていた。
自分が何をやりたいのかがわからなくて。
ママ:強いて言えば、世界中の遺跡巡りが夢だった。
それも、岩とか洞窟とかに描かれた壁画とか
絵文字とか、そういうのを見て回ること。
私: ママって、ちょっと変わり者だったんじゃない?(笑)
ママ: そうなのかなあ…。(笑)
いつも、自分のやるべきことは何なんだろう?って
ぼんやりと考えてた気がする。
ってことは、今思えば、
何かやることがあるはずだ、って
何となくわかってたのかな・・・?
ママ: で、自分で自分のことを持て余して、
日本の外へ出てみようと思ったの。
どこへ行こうかな?って考えた時に
スペインの話を思い出して。
田舎の書店でようやくみつけたぺらぺらに薄い本に
スペインの情報がたった1ページだけ載ってたの。
1日5食で、
シエスタと呼ばれる「お昼休み」が13~16時まであって、
みんなはいったん自宅に戻って
ボリュームいっぱいの昼食を
ゆっくり時間をかけて食べる。
街には、「バル」と呼ばれる一杯飲み屋があって、
ワインは水のように安価で、
カウンターに並ぶおつまみをつまみながら
夜を過ごす。
まるでパラダイスだなと思って。
よし、決まり!って。(笑)
とりあえず、1年間、昼も夜も働いてお金を溜めた。
みんなは「言葉はどうするの?」って心配してたけど、
「人類みな兄弟だから何とかなる」って、
な~んにも不安に思わず、
もう日本には帰らないつもりで
片道チケットだけ購入して日本を脱出した。
パソコンもない時代でしょ?
情報は『地球の歩き方』っていう本だけ。
旅行者たちが情報を寄せたのをまとめたガイドブック
みたいな。
今でいうと「口コミ」?
そのスペインのページだけをビリビリと破り取って
持ち歩いた。
破り取れるぐらい情報が少なかったってこと。(笑)
ママ: 親には前日の夜になって、
「明日からスペインへ行くって言った。
向こうに友達がいるとかなんとか嘘をついて。
本当は、飛行機のチケットを購入しただけで、
現地についてからの宿泊先すら
決まっていなかったんだけど。
ママは日本にもなんの未練もなかったのだそう。
一生、フラフラと当てもなく彷徨いながら生きる、
自分の人生はそんなイメージだったんだって。
当時は、バックパッカーというのが流行っていて、
若者はリュックを背負って
世界中を格安で旅行していた。
『地球の歩き方』もそういう人たちが
記事を投稿していた。
ママは生まれて初めて、しかもひとりで
海外へ旅立った。
そのころはスペインへの直行便がなかったので
とりあえず、フランスのパリまで。
パリからは国際列車でスペインのマドリッッドへ
行く予定だ。
ママ: まずパリに着いたらね、
空港から市内にでなくちゃいけないわけ。
で、国際駅に行く。
私: 成田空港から東京駅へ行くような感じだね?
ママ: そうそう!
空港で、『会話集』を広げて、
「市内へ行くバスはどこですか?」って聞いてみた。
そしたら、その人が指さした先にバス停があったの。
タイミングよくバスがやってきた。
たくさんの人たちがわ~っと群がってきて、
みんなバスの下部に荷物を積み込んでるんだけど、
私は肩に担いだバッグだけだったから、
そのままバスに乗り込んだ。
一番に乗り込んで、
「あれ~?お金を払うところがないなあ?」
って思いながら、
一番前の座席に座ったの。
で、続々と乗客が乗り込んできて、
ほぼ満席になったの。
そして、バスが出発すると、
ママは不思議な光景を目にすることになる・・・。
ひとりの男性が運転手の横に立って、
なにやら自己紹介らしきことを始めたのだ。
身振り手振りで面白おかしくしゃべっていて、
みんなの笑いを誘っている。
ママは生まれて初めて聴くフランス語で
意味はまったく分からないが、
バスの中で自己紹介をするなんて
なんてフレンドリーな国だろうと思った。
そのとき。
笑顔でしゃべっていた男性がふとママの方を見た。
その瞬間、さっと顔色が変わり、
「໓ໃໃຢฑൡ൲൴൧൮൫!!!」
と叫んだ。
うろたえるママ・・・。
彼はなおも凍りついた表情で叫び続ける。
「൧൮໓ໃໃຢฑൡ൲൴൧൮൫!!!」
ママ: (う・・・・あ・・・、な、なに?)
(あ、もしかして、乗るときに
お金を払わなかったから?)
え、えっと・・・・
あ、あの、 ハウマッチ?
無賃乗車をなじられているのだと思ったママは、
お財布を見せながら、
必死で払う意思があると伝えようとしたんだけど、
彼はますますエスカレートして、
「ൡ൲൴൧൮໓ໃໃຢฑൡ൲൴൧൮൫!!!」
と叫び続けている。
そして、乗客たちは全員総立ちになって、
「なんだ、なんだ」と大騒ぎしながら
ママの方を見ている・・・・・
(ど、どうしよう? 何を言ってるの?)
そのとき、突然、日本語が聞こえた。
「あんた、日本人?」
ママはその声のする方へ振り向いて、
「はいっ、そうです!」って叫んだ。
(助かった!)
ひとりの中年のおばさんが、かたことの日本語で
「これはわたしたち韓国人のツアーバスよ」
と言った。
ママ: (ええっ?)
(韓国人?)
(ツアーバス?)
(じゃあ、しゃべっていたのは、韓国語?)
(どうりで語尾が
「~ムニダ」 「~スミダ」 って、
やたら「ダ」が耳について、
フランス語ってこんな感じだっけなあ?
って思ったんだよね・・・・・ )
とにかく、自分が間違えて韓国人のツアーバスに
乗ってしまったことだけは分った。
そうだ・・・・
飛行機、大韓航空だったっけ。
成田を出発した飛行機は、
2時間後にはソウルへ着き、
韓国人ツアー客を乗せて
パリへと飛んだのだ。
ママが住んでいたHOSTAL(オスタル)は
とても家庭的だった。
オーナー夫妻はまだ若く、
ご主人は30歳ぐらいで、
奥さんは28歳だった。
小学校に上がったばかりの男の子と
3歳の男の子がいた。
ママ: ご主人はお勤めしていて、
HOSTAL(オスタル)は
奥さんがひとりで仕切っていたの。
常時5~6人の滞在者がいて、
滞在者専用のキッチンもあったの。
そこでみんなと顔を合わせることが多かった。
レバノン人の彼は優しい人だった。
みんなは何となく彼のことを敬遠していたけど、
ママは嫌いではなかった。
だからだろうか、彼もママには身の上話を
聞かせてくれた。
異国で身よりも知り合いもなく、
ひとりぽっちで
生きていくすべすらなく
3カ月の観光ビザが切れれば
不法滞在になる。
手に職があっても、
働くことができない。
生きることに切羽詰っていた彼の苦しみが
平和な日本で育ったママにはわかるはずもなかった。
私: それで、どうなったの?
ママ: うん、すぐにスペイン人の女の子と結婚したの。
私: え~?
ママ: 彼はすごいハンサムだったでしょう?
街を歩いていたときに、
彼に一目ぼれした女の子が声をかけてきて、
交際して1か月ぐらいで結婚したの。
身寄りのない彼のために、
HOSTAL(オスタル)の若夫婦が
教会で立会人になって。
彼の本意はわからない。
祖国には安否のわからない恋人がいる。
それでも、「明日生きる」ためには、
スペイン人と結婚する以外にないのだ。
結婚すれば、
滞在できるし、
仕事もできる。
彼にとって「生きる」道が開ける。
「最近、よく彼のことを思い出すの」
とママは言った。
平和な日本で生活しながら、
命の危機におびえる必要もなく、
「自分のやりたいことって何だろう?」
って悩めるのは、
ある意味、贅沢な幸せだなあって思って。
ママだって、今思えば「自分探し」のために
スペインヘ行ったようなものなんだから。
私: そうなの?
ヒッピーになるためじゃなかったの?
ママ:ヒッピーにはなれなかったんだよ。(笑)
言葉ができなかったから。
私: え~?
だって、「人類みな兄弟」って思ってたんじゃ・・・?
ママ: 兄弟だって、
言葉が違えば「会話」はできないんだよ。
私: そんな初歩に立ち返ったんだ。(笑)
ママ: そう。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
の格言さながらに、
まさに自分が身をもって体験した時点で
ようやく悟るんだよね。(笑)
悟ったいきさつはこうだ。
ママはマドリッドへ着いて、
荷物を宿へ置き、
ひとりブラブラと街を散策していた。
そのうち、トイレへ行きたくなった。
「Excuse me(エクスキューズミー)」と言えば、
通行人は立ち止まってはくれるものの、
(トイレって、スペイン語で何て言うの?)
(えっと、デパートへ行けばトイレはあるだろうから、
デパートはどこですか?って聞けばいいのかな?
スペイン語でデパートって何て言うんだろう?)
通行人は、ママがまごまごしている間に、
立ち去ってしまった。
このとき、はじめて。
ママは、(どうしよう!言葉がわからない!)
って焦った。
当時のスペインでは英語は全く通じなかったし。
私: 用意周到とか、
備えあれば憂いなしとか、
全く考えない人だったんだね。
ママ: っていうか、
「言葉がわからないと困るんじゃないかな」
っていう発想自体、なかったわけだから。
何とかなる、って思ってたわけでしょ?
私: でも、何とかならなかったじゃん。
ママ: そうそう。(笑)
で、ヒッピーになる前に、
まずは言葉を勉強しなきゃ、ってね。
私: ははははは・・・・・
ママ: さっき、いまさらこんな昔話をしようと
思ったわけが二つあるって言ったでしょう?
二つ目がこれなの。
後々になって、
自分の人生を振り返ったとき、
若気の至りだったとはいえ、
なんて軽率で無鉄砲だったんだと
思ったりしたこともあったの。
もちろん後悔はないけど。
でも、18、19歳ぐらいならともかく、
20代半ばって言うと、
周りはみんな学校を卒業して
社会人になってる わけだからね。
今みたいに「フリーター」なんていう言葉も
なかったしね。
そう、ママはある意味、
アウトサイダーだったのだ。
ママ: 別にやりたいこともなかったし、
将来のことを考えるわけでもないし。
親世代からみると、
決して感心のできる生き方ではなかっただろう。
ママ: ところがね、今の時代は
高校とか、ううん、中学校とかでも
不登校の子供がいる時代でしょう?
ときどき、クライアントさんからも
そういう相談を受けたり、
直接お子さんと話すときもあるんだけどね、
そんなときにいつも思い出すのが、
このときのことなの。
そして、
大丈夫、
人生なんて、いくらでもやり直しがきくし、
たとえ周囲に照らして
遠回りをしているように思えても、
その経験が生きるときは必ずくるし、
だからそんなに深刻に悩まなくたっていいよ、
って思えるんだよね。
人生の選択肢なんていくらでもある。
周りと歩調が違ってたって、大丈夫。
自分は自分のペースで生きればいい。
ママは自分の経験を踏まえて、
そんなふうに思うようになったんだけど、
何よりそのことを知ってほしいのは、
子供の不登校に悩んでいる親御さんの方なんだって。
ママ: レールから外れずに生きてきた親ほど、
子供のことを心配するから。
そして、
「普通は学校へ行くでしょ!」
「普通は・・・・」
「普通は・・・・」
って、子供を追い詰めてしまう。
それは自分の価値観にすぎないのに、
そのことに気が付いてない。
あるとき、不登校の子供が
ぽつんとこう言ったの。
「自分は普通じゃないから、
存在価値がない。
死んじゃった方がいいんだ」って。
胸が締め付けられる思いだった。
普通じゃないことがそんなにいけないこと?
「普通」ってなに?って。
中学生ぐらいだと、
自分の世界は学校と家庭が大半でしょう?
学校に行かなければ
居場所は家庭しかない。
でも、その家庭の中で
「おまえは普通じゃない・・・」って
追い詰められたら・・。
生きる気力も奪いかねない。
でもね、
世界は広いんだよ。
視野を広げてみたら、
いろんな生き方をしてる人がたくさんいるんだよ。
大事なことは自分が後悔しないように
自分らしく生きることなんだよ、って
伝えてあげたい。
大丈夫なんだよ、
これから成長して、
自分の目にする世界が広がれば、
きっと、
自分は自分でいいんだって思えるから、
どうか自分はダメな人間なんだとか、
生きている価値がないとか、
そんなふうに自己否定しないでね、って。
私: つまり・・・・
ママが今になって
若いころのことを思い出したのは、
平和な国にいて、
「人生」について考えるのは、
なんて贅沢で 幸せな事なんだろう、
って思ったことと、
人生は回り道したり
道草をくっているように思えても、
体験したことはいずれ「糧」になる、
だから、「すべて良し」なんだ、
っていうことを伝えたかったから?
ママ: まあ、そんなとこかな。(笑)
エフちゃん、要約するの、上手いじゃない!
ははは・・・
あとね、スピリチュアルを学んで、
人はみなシナリオを決めて生まれてくるってことが
わかったでしょう?
私も若いころは、何の考えもなく
フラフラ生きてきたように思ってたけど、
最近になって、
子供の頃からのいろんな出来事、
たとえば、
小さい頃に読んだ本も、
興味を持ったことも、
出会った人たちも、
就いてきた仕事も、
ぜ~んぶ1本の糸に繋がり始めたの。
それで、
な~んだ、結局、
こういう風になってるのかって。
自分のやってることの関連性がわからなくて、
ジグゾ-パスルのように
あっちのピース、
こっちのピースって
ばらばらになってるときは
さも思いつきだけで
あれをやったり、
これをやってみたり、
無意味なことをやってきたって思いがちだけど、
人生には本当になにひとつ
無駄はないんだなあって。
ヒプノに出会ったときだって、
「このまま何もしないで私の残りの人生は
終わってしまう」って焦ってたけど、
ハイヤーセルフは、
「これからのあなたの人生は、
『残りの人生』ではありません。
これからが本番なのです」
って言ったの。
それを聞いたとき、
「え~っ?」って驚いたけど、
本当にその通りになってるし、
だから、
人生のメインがどの時期にくるかなんて
人によって異なるんだから、
「標準コース」でなくても心配することはないし、
それよりも
自分らしく生きていけばいいんだと思うんだよね。
スペインでは、いろんな日本人に出会った。
今と比べれば、自由に生きている人は
まだまだ少なかったかもしれないけど、
ママ: でも、田舎よりは東京、
そして、東京よりはスペインで、
自由人と出会う確率は高かったよね。
ママは滞在中、フランスで困難を共にした
マサ氏、タカ君、モト君とは頻繁に会っていた。
ママ: 携帯電話もない時代なのに、
どうやって連絡を取り合ってたのかな?
覚えてないけど。(笑)
マドリッドに到着して間もないころ、
せっかくだから、
「闘牛」を見に行こうということになった。
そこでひとりの日本人の男の子に出会った。
20歳だという。
ママ: 驚いたのはね、まだ20歳なのに、
老人のようにというと大げさだけど、
すっごく老けて見えたの。
なんかもう、
人生に疲れ切っている感じで。
彼は高校を卒業してから2年間、
世界を放浪してきたのだという。
(わ~、すてき!)
さぞかし面白い話をたくさん聞けるかと思いきや、
彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「もう疲れた。
日本が一番いい。
早く日本に帰りたい」
私: 何があったんだろう?
ママ:怖い目にいっぱい遭ったんだって。
一番怖かったのは、
コロンビアにいたときだって。
昼間、普通にアパートにいたら、
制服姿の警官がいきなり入ってきて、
銃を突きつけ、「手を挙げろ」。
「金を出せば命は助けてやる」って。
強盗じゃなくて、警官だよ?
そんなの、日常茶飯事だったって。
その後、続けて言った言葉が怖かった。
ママ: 国がまだ貧しかったんだよね。
デパートの前ではジプシーの3歳ぐらいの女の子が
一生懸命フラメンコを踊ってたり。
その子の親が少し離れた所から見てるの。
子供だと、みんなが同情してお金を恵むでしょう?
こんな小さい子に踊らせてお金を稼がせるんだ、
って驚いた。
あとね、物乞いをする人たちもね、
組織になってるみたいだった。
私: なんでわかるの?
ママ: 毎朝、地下鉄の駅から
ぞろぞろと集団で出てきて、
「じゃあな、今日も頑張ろうぜ!」
みたいな挨拶しながら方々に散って行くの。
手にはお金を恵んでもらうための、
洗面器みたいな容器を持っていて。
私: ええ~?
ママ: 小さい子供を連れている人もいるんだけど、
聞いた話では我が子ではなくて、
「借りてる」らしいの。
その組織に属している人たちの子供たちなんだって。
マドリッドの中心地には
売春をしている女性たちも
常時たむろしていた。
2,000円が相場なのだとか。
(新卒の月給が6万円ぐらい)
ママ: スペイン語を話せるようになるには
どうしたらいいかな~って考えてね、
そうだ!
日本語を勉強しているスペイン人を
探せばいい!って思ったの。
私: どうやって探したの?
ママ: 日本の大学でも外国語を勉強するときに
「外国語学部」ってあるじゃない?
そういうところを探せばいいかな、って思って、
マドリッド大学を覗いてみたら、あったの、
日本語を学ぶコースが!
ここで付け加えておくと、
ママはいきなり大学のことを閃いたわけではない。
マドリッドへ着いて、
言葉が全くできず、
これではヒッピーどろこか、生活もままならないと
ようやく自覚したママは
まずスペイン語を勉強しなければと思った。
タカ君とモト君がマドリッド大学の語学コースへ
通うというのを聞いて、
ママも一緒に学ぶことにしたのだ。
海外の大学にはたいてい
大学進学を目指す留学生のために
語学学校が併設されている。
ママ: 入学するにも、大学の事務局へ行って
手続きしなくちゃいけないでしょ?
タカ君やモト君はちゃんと事前に
日本の旅行会社を通して
手続き済みなんだけど、
私は自分でやらなくちゃいけない。
でも一言も話せないし。
そうしたら、
たまたまそこに日本人の男性が
手続きに来ていて・・・。
彼が見かねてサポートしてくれた。
「一言も話せないんですか?」って
驚きというよりも、あきれた感じで・・・・。
そりゃあ、そうだろう。
みんなスペイン語を学ぶための
確たる目的を持っている。
仕事で必要とか、
もっとレベルアップしたいとか、
ママ: あと、フラメンコを学びに来ていて、
そのためにはスペイン語が必須だからとか。
ママのように何の目的もなく
ただふらふらしたいだけで、
下地も全くなくて、
おまけに年齢だってもう20代半ばなんて・・・・。
ママ: 世の中は、
人生にしっかりした目的を持って歩んでいる人は
「偉いね」って言われるけど、
行き当たりばったりで生きてる人には
生きづらい時代だったからね。
今みたいに、「フリーター」の存在もなかったし。
それこは駅前にある古い建物の一室だった。
生徒は10人ぐらいでこじんまりとしていた。
ママ: 来ている人たちは全員アラブ人だったの。
しかも男性ばかり。
この教室での授業はとても良かった。
少人数でわかりやすくて、丁寧だったし、
女性の先生も優しかったから。
アラブ人の男の子たちも
スペイン語を「一から学ぶ」レベルだったので、
ママは気後れすることなく、楽しく学べたのだそう。
ママ: 面白いことがいっぱいあったの。
たとえば、発音。
ほら、日本人って英語の「R」と「L」の
発音が難しいでしょう?
彼らは難なくできるわけ。
で、私が苦労しているのを見て笑う。
ところがね・・・
彼らは、
「パ・ピ・プ・ペ・ポ」の音を出せないの。
私: え~?なんで?
ママ: 「パ・ピ・プ・ペ・ポ」の音って、
考えてみれば、
上唇と下唇を軽く触れ合わせて出しているでしょう?
エフちゃん、ちょっとやってみて?
私: パ・・・ピ・・・プ・・・・
ほんとだ!
ママ: ね?
でも、彼らは母国語にそういう音を持ってないの。
だから、出し方がわからない。
懸命に両唇を軽く触れ合わせて
「パ・ピ・プ・ペ・ポ」って言おうとするんだけど、
どうしても、
「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」になっちゃう。
スペイン語で「ドア」のことは
「puerta(プエルタ)」って言うんだけど、
何度やっても、「ブ、ブ、ブエルタ・・・・」って。笑
顔を真っ赤にして、
「ブ、ブ・・・」って言ってる様がおかしくて。
ママはこれが目から鱗だったんだって。
子供は親の話す「音」を耳で聞き、
それと同じ「音」を出すことで言葉を覚えていくのだと
痛感したんだって。
ママ: だから、
生まれてから一度も「聞いたことのない音」は
どうやって出せばいいのかがわからない。
英語の「R」と「L」もそうだよね?
「RA」と「LA」と、日本語の「ラ」の音の違いは、
舌の位置なんだけど、
エフちゃん、ちょっと、「ラ」って言ってみて?
私: ラ・・・
ママ: 舌の先が口内の上部に触れてるでしょう?
私: うん
ママ: 「LA」の場合は、
舌先をその場所よりもう少し前に触れるの。
「RA」は、どこにも触れない。
でも、
「ラ・リ・ル・レ・ロ」って言ってみればわかるけど、
舌先は必ず口内に触れてるでしょう?
私: ラ、リ、ル、レ、ロ・・・・・。ほんとだ。
ママ: 日本語には
「RA」や「LA」が存在していないから、
その音を出すような舌の動きを知らないんだよね。
同様に、彼らも上下の唇を軽く触れ合わせて
「プ」という音なんて
生まれてから一度も出したことがないわけで・・・。
それに、子供のときは聴力がいいから
どんな音を聞いても真似ができるけれど、
20代から聴力は低下するといわれている。
そうなると、「音」を正しく聞き取ることができにくくなる。
ママ: ってことは、正しく発音することもできにくくなる
ってことだよね?
だから、小さいときに外国語に触れると
ネイティブなみの発音ができるけど、
大人になってから学んだ場合は
そこまでうまくできない。
絶対音感がある人は別だけど。
このときの体験が、
帰国後、英会話スクールに就職したママには
すごく役に立つことになる。
ママ: なにしろ、
外国語を本当に一から学んだわけだから。笑
さて、もう30年も前の話で
おまけに日記もメモも何もつけていなかったから
ママのおぼろげな記憶なんだけど、
おそらくそのスクールのあと、
また別の語学学校へ通ったはずだという。
どこでその学校の情報を手に入れたのかも
全く覚えていないって。
ママ: そこも少人数で
すごく丁寧に教えてくれた。
前のところとの違いは、
いろんな国の人が来ていたところ。
ママと同い年の中国人の女の子もいた。
まだ25歳なのに、結婚していて、
おまけに子供もふたりいた。
ママ: 郊外でご夫婦でレストランを経営していて、
お店が忙しいと学校を休むことがあったの。
で、次の授業のときにノートを見せてあげると、
ふんふんとうなづいて理解している様子なので
「日本語なのにわかるの?」って聞いたら
漢字を指差して、「わかる」って。
「雷」とか「雨」とか、
漢字だけを拾って読んでたみたいで・・・・。笑
驚いたけど、
そんなこともあってすごく仲良しになった。
ぜひお店に遊びに来てと言われ、
デンマーク人のクラスメイトと一緒に一度だけ
訪ねたことがある。
ママ: デンマーク人の女の子も20代前半で、
その子はスペイン人の家庭にホームステイして
いたの。
無料で住ませてもらいながら
現地の学校へ通って。
その代わりに、
ホストファミリー宅のベビーシッターや家事手伝いを
やって、お小遣いももらえるっていうシステムだった
みたい。
ヨーロッパの若い子達は
そういったシステムを利用しながら
春休みや夏休み、冬休みを使って
世界の国々で生活し、
国際交流を深める経験を積んだりしてた。
ママ: 中国人のクラスメイトのお店を訪ねたときは
それはもうすごい歓迎ぶりで・・・。
そもそもbar(バー)も併設された高級レストラン
だったんだけど、
豪華な中国料理が次から次へと運ばれてきて。
食べるのは二人しかいないし、
「もう無理」って言っても、どんどん出てくる。
最後はついにギブアップ。笑
ディスコにまで繰り出してね・・・・
あのころは
人種の違いとかあまり気にしなかったなあ・・・
でも、国民性の違いを感じることはあった。
そこの学校で遠足みたいなのがあって、
バスで観光地を巡ったのね。
白雪姫の舞台になったお城へ行ったとき、
お城の上におびただしい数のカラスがいて。
それを見た瞬間、デンマーク人の子が、
「わあ!かわいい!」って興奮して・・・。
(えっ?不気味、じゃなくて、かわいい?)
おどろいた~! 笑
「いつかデンマークへ遊びに来てね、
日本人は珍しいからきっと家族も友人たちも
驚くと思う」って言ってくれたけど、
お互いに言葉もあまり話せなかったから
学校が終わったらそれっきりになっちゃったけど。
3ヶ月ぐらいは通ったのかな・・・
う~ん、思い出せない。
私: でも、ママ、30年以上経ってから
デンマークを訪ねる とになるんだから
不思議だよね。
ママ: ほんとだね。
いまや、現地では日本人は珍しくないけどね。笑
クラスにはブラジル人の男の子もいた。
あるとき、彼が、
「僕が住んでるオスタルはすごくいいよ、
ちょうど一部屋、空いてるよ」と話しかけてきた。
それで、ママはそこへ移ったのだ。
ママ: そのときはね、
最初に住んでいたホームステイ先を出て、
別の所にいたの。
おばあちゃんが一人で暮らしていて、
空いている2部屋を貸してたの。
1部屋にはおじさんが住んでいたみたいだけど
朝早く仕事に行って、
夜遅く帰ってきていたから
ほとんど顔を見たことがなかったし、
私が行ってまもなく、おばあちゃんとケンカして
出て行った。
このころ、ママはまだ
全くといっていいほど言葉ができなかったけど、
おばあちゃんはママのことをまるで孫娘のように
かわいがってくれた。
ママ: 市場へお買い物へ行くときも
一緒に行こう、って。
初めて「チリモジャ」っていう果物を食べて、
あまりの美味しさに驚いて・・・・。
果肉が濃厚なヨーグルトみたいな感じで、
梨のような甘ったるさで。
こんな美味しい果物、食べたことない!!
「美味しい、美味しい!」って言ったら、
次からも買ってくれて。
ほかの果物よりも値段が高かったんだけど。
私: どうしてそこを出たの?
ママ: 1日2食付の下宿契約だったから
費用が結構かさんだの。
朝はミルクティに菓子パン、
夜はメインの鶏肉料理に野菜サラダを
作ってくれた。
今考えると、おばあちゃんは
寂しい一人暮らしの家に孫娘のような子が来て、
嬉しかったのかな。
「マサコ、マサコ」ってかわいがってくれた。
でも、ママは
ブラジル人のクラスメイトに誘われるままに、
オスタル(アパートメント)へと移ったのだった。
場所は
マドリッドの中心地、「プエルタ・デル・ソル」広場から
すぐそばの通りにあった。
そして、ここで住み始めてまもなく、
ママは前述のマドリッド大学へ行き、
掲示板に張り紙をした。
「スペイン語と日本語の交換レッスンをしませんか?」
って。
ママ: もちろん、自分で書けるはずもないから、
誰かに手伝ってもらったんだと思うんだけど。
私: それで、どうなったの?
ママ: 連絡先はそのオスタルの電話番号にしたの。
希望者から電話がかかってくると、
オスタルの女主人フィナが出て、
待ち合わせの日時と場所を決めてくれた。
ママ: そして、身振り手振りで、
「マサコ、○日の○時に、デパートの前に行って」
と言いながら、相手の名前を書いたメモを
渡してくれたの。
エル・コルテ・イングレス (El Corte Ingles )っていう
デパートだったかな・・・。
数人から電話がかかってきた。
そのうちのひとりが、旅行中に家に泥棒に入られた
女の子なのだそう。
私: でも、ママ、
大学で日本語を勉強している人が
いるんじゃないかとか
その人たちと交換レッスンをしたらどうかなんて
よく思いついたね。
ママ: そうだねえ・・・・
おかげでスペイン人の友達がたくさんできて
すごく楽しかったんだよね~
外国語を勉強したくてその国へ行ったら、
現地で友達を作るのは必須かもしれない。
せっかく留学しても
日本人同士ばかりで行動していると、
当然日本語を話すことになるので
もったいないと思う。
ママ: 大学生のタカ君は、空手をやっていて、
しかも黒帯だったのね。
それで、
マドリッド市内の空手教室を探して顔を出したら、
「日本人の黒帯が来た」って大歓迎されて、
その教室にちょこちょこ通って、
友達がいっぱいできてた。
そのとき、ママは
(なるほど~、こんなふうに、
世界のどこへ行っても通用する「何か」を
やっているのっていいな)って思ったんだって。
異国で言葉が通じなくても、
共通でできるものを持っていると、
それを通して交流が図れるし、
友達も作れるから。
タカ君とモト君は
3ヶ月間スペインの語学学校へ通って、
そのあとイギリスへ旅行してから帰国した。
ママ: イギリスへ旅行する日、
手作りのお弁当を作ってあげようと思いついて。
思いつきは良かったけど、
実はママは料理が全くできなかった。
卵焼きと、ポテトサラダと、おにぎりと、
あ~、まずはご飯を炊かなくちゃ、って。
オスタルには宿泊者が自由に使えるキッチンがあって、
調理器具や食器も揃っていた。
ママ: ご飯は確か、
「始めチョロチョロ、中パッパ」
だったっけ?ってトライしたんだけど、
大変なことになっちゃって・・・・。
お鍋からは煙がもくもくと出始めた。
ママは気にも留めず、おかずを作っていたんだけど、
廊下から騒ぐ声が聞こえてきたのだ。
ママ: オスタルはね、玄関を入ると
オープンのリビングがあって、
そこから奥まで廊下が続いていて、
突き当りがキッチンなの。
「火事だ、火事だ!」って大騒ぎで
オスタルのご主人がキッチンのドアを開けると
黒い煙に包まれて、ママが立っていた。
ママ: 煙が廊下にまで充満していたらしいんだけど、
全然気がつかなくて。
ご主人が、「マ、マサコ?」って
驚いた顔で立ち尽くしていた。笑
かくして、
焦げたおにぎりを持たされたタカ君とモト君。
お礼に、って
イギリスでバーバリーのセーターを買ってきてくれた。
私: うわ~!
高くついたね~!笑
現地で知り合った日本人の中に、
50歳の女性がいた。
ママ: 東京の一流ホテルの中の宝石店で
働いていたんだって。
外人の観光客がとても多かったのだそう。
英語は堪能で不自由しなかったんだけど、
メキシコ人も多くて、
スペイン語も必要だったんだって。
働きながら夜間、スペイン語の勉強を続けたけれど、
さらに磨きをかけるため、
思い切って留学してきたのだとか。
「あと10年早く来ていたら・・・・」というのが
彼女の口癖だった。
「どんなに勉強をしても、
朝に覚えたことを、夜には忘れてしまう。
お金で何でも買えるとしたら、年齢を買いたい。
あと10年若かったら、
勉強したことがもっともっと身につくのに」
彼女の意欲にも敬服だけれど、
現地で知り合った日本語を勉強している人たちにも
ママは頭の下がる思いだった。
ママ: だって、エフちゃん、
外国語を一から学ぶのって、
本当に大変だもん。
まさにママは身をもって体験したわけだ。笑
ママ: しかも、日本語には漢字があるでしょう?
日本人だって、小学校1年生から
毎年少しずつ覚えていくのに、
彼らはもっと短期間で学ぶわけだからさ。
音読みとか訓読みとかもあるし。
いや~、日本語は大変だと思うよ。
ママ: それをコツコツと勉強するスペイン人たちは
本当にすごいと思う。
私: その人たちは、どんな目的で日本語を学ぶの?
ママ: 日本企業がたくさん進出してたから、
日本語ができると就職に有利なんだって。
当時、大学の初任給が月6万円ぐらい。
日本への飛行機チケットは
片道で15万円ぐらいだっただろうか。
記憶は曖昧だけど、
いずれにせよ、
気軽に観光で日本へ行くのすら容易ではない時代。
ましてや自費で日本留学など
よほどのお金持ちでなければかなわない。
ということは、
自国の中だけで勉強を積み重ねなければならない。
私: そっか、そういう状況だから、
日本人と交換セッションができるのは
貴重な機会なわけだね。
おかけで、ママは友達がたくさんできて
充実したスペイン生活を送ることができたんだけど。
ママ: ちなみに、エフちゃん、
日本語って、漢字もさることながら、
擬態語、擬音語が多いのが大変らしいよ。
私: それは何?
ママ: たとえば、風が「ぴゅーぴゅー」吹く、とか。
雨が「しとしと」降る、とか。
花びらが「ひらひら」と舞う、とか。
「ぎらぎら」「どんどん」「さめざめ」・・・・
ママ: ふだん、当たり前に使っているけど、
「さめざめと泣くって、どういう意味?」とか、
「かんかんに怒る、って?」って聞かれても、
説明できない。笑
さめざめはさめざめだよ、とか
かんかんは、かんかんじゃん!って。笑
あとさ、
「ちょっと」と、「ちょっぴり」と、「少し」の
使い分けとか、
「ちょうど」と、「ぴったり」はどう違うのかとか。
私: うわ! そんなの、わかんない。
もう身に染み付いちゃってるし。
ママ: そうなんだよね。
外国語って、バイリンガルの人は別だけど、
大人になってから学ぶと
なんだか「記号」を勉強してるみたいというか。
日本人同士だと、
「さめざめ」って言っても
その感覚が理解できるけど、
これが外国語だと、
「このタイミングでこの言葉を使うんだな」って。
まるで「記号」を伝えているかのよう。
私: ふ~ん・・・
確かに、言葉の持つ「感覚」まで理解するのって
難しいよね・・・。
ママ: 実際、そのことを指摘されたときに
なるほどって思ったんだけどね。
たまたま同じオスタルに宿泊していた日本人に
紹介してもらった年配のスペイン人女性は
若いころ、大使館勤務で日本に滞在していた方だった。
日本語はペラペラ。
その語学力を生かして、
スペイン語を勉強する日本人に
プライベートレッスンを行っていた。
ママ: あのね、エフちゃん、
日本語もスペイン語もどちらもできる人に
教わるのがいいの。
スペイン語だけの言い回しを覚えていくよりも、
「日本語でこう言いたいことは
スペイン語ではどう表現するの?」って
聞けるでしょう?
あと、
スペイン語で話したことを
正確な言い回しに直してもらえるし。
ママが言うには、
外国語を学ぶ上でこれはとても有効なのだという。
帰国後、英会話スクールの受付をやっていたとき、
英語を使うビジネスマンたちの希望は
「バイリンガルの先生に習いたい」だった。
どちらの言語も母国語として精通している人に
教えてもらうのが理想だと言っていた。
「旅行会話の場合」とか、
「自己紹介の場合」とか、
パターンで表現を覚えるのではなくて、
今まさに日本語で言いたいことを
「英語ではどう言うの?」というのが知りたい。
そのためには、
「今まさに日本語で言いたいこと」の意味も
それを「英語ではどう言うか」も
母国語レベルで理解できる人が
うってつけというわけだった。
ママ: だってね、
大使館で働いていたその女性が
言ってたんだけどね、
どんなに勉強しても、
たとえば、
「しんしんと雪が降る」の
「しんしん」の意味がわからない、って。
私: しんしん・・・
ママ: エフちゃん、外人に
「しんしん」って、どういう意味?って聞かれたら、
説明できる?
私: え~・・・・・
う~ん・・・・、難しいなあ・・・・
ママ: だよね?
あえて言うなら、「静かに」とかかな?
でも、実際は、そういう意味じゃないよね?
なんかこう、ひっそりと降り積もるような、
独特の情感って、あるよね?
この感覚はきっと、日本で生まれ育った人にしか
分からないんだと思うの。
私: なるほどねえ・・・・・
ママ: だから、たとえば、彼女が
スペイン人に日本語を教えるにしても
「しんしん」の正確な意味は教えられないでしょう?
これと同じことを、ママは今、痛感しているんだって。
「目に見えない世界」のことを伝えるときに。
ママ: リーディングやチャネリングで
受け取ったことって、
相手に伝えるときには
「言語化」しなくちゃいけないじゃない?
でも、
3次元とは異なる次元から受け取っているわけだし、
私たちが普段使っているような「言葉」で
降ってくるわけでもないし、
強いていうなら、
「感じとっている」に過ぎないわけ。