
家賃は月単位だったから、
帰国まで数日を残していたママは部屋を引き払い、
アヤノの家にお世話になった。
後日、そのオスタルに移って来た日本人から、
「マサコさんが出て行った翌日、
フィナが部屋をノックして、
『マサコ、マサコ!』って呼びかけてたから、
「マサコはもういないよ」って言ったら、
あっ!っていう顔をして、涙ぐんでたよ」
と聞かされて、ちょっとつらくなった。
ママ: 家族のように接してくれてたの。
みんなでハイキングとかに行くときも一緒に
連れて行ってくれて。
お部屋を借りている人は長期滞在者が多かったから、
月に1回、自国の料理を持ち寄ってお食事会も
やってくれたし。
アメリカ人、ブラジル人、チリ人、日本人・・・。
私: ママは何を作ったの?
ママ: もうひとり日本人の女の子が住んでいて、
その子が持っていた「ちらし寿司の元」を
使って、簡単ちらし寿司。
フィナはパエリャを作ってくれたっけ。
住居者専用のキッチンもあったから、
そこが談話室みたいになってて、
リビングも共有だったし、
けっこう楽しい共同生活だったなあ。
若い大家さん夫婦に、いろんな国の下宿人たち、
みたいな。
私: 今でいう、シェアアウスみたいな感じだね。
ママ: そうだね。
そこに大家さんも一緒に住んでいる、みたいなね。
大家さんっていっても、フィナは28歳だったし、
長期滞在者はみんな20代だったからね。
和気藹々だったね。
フィナは造花が大好きって言ってたから、
帰国したらいっぱい送ってあげようと思っていたのに、
ママ: もう30年以上経っちゃった・・・。笑
帰国の日は、アヤノが駅まで見送ってくれた。
ママは列車でイタリアへ行き、
現地の日本食レストランで働いている友人宅に
しばらく泊めてもらって、そこから飛行機で
日本へ帰る予定だった。
ママ: 列車が動き始めたら、
当時流行っていた「Mi España(=私のスペイン)」という曲が
急に頭の中を流れ始めたの・・・。
涙が溢れてきて、
胸が張り裂けそうなくらい悲しくて悲しくて・・・。
「Mi España、Mi España」って心が叫んでるの。
帰国するって決めたたときも
別になんとも思ってなかったのに、
いざ、マドリッドを離れ始めたら悲しみがこみ上げてきて・・・。
私: それって、過去世からきてたのかな?
ママ: きっと、そうだね。

